私たちの多くは自分たちの利益を最大にして幸な人生を送りたいと考えています。
働く人の主な理由は「好きなことをするにはお金が必要、だからお金を稼ぐために働く」です。「好きなことをする」の部分が「生きるため」の場合もあります。
そのために、ほんの少しの損すらを嫌がり、より多くの利益を得ようとします。
会社には効率化、収益改善、数値目標といった言葉が蔓延し、それを追い続けることを強要されます。
同時に、利益や結果を追い続け、成果を出し業績を上げ、より高い給料を目指します。
それは全て自分が幸せになるためです。ですが、果たしてそれを追い続けて自分が幸せになるのでしょうか?
ここでは、あえて少し損をして生きることの勧めを紹介しています。
私たちは恵まれている
そもそも多くの人たちが「私は不幸だ」「足りない」「幸せになりたい」と嘆いていますが、そもそも、それは本当なのでしょうか?
この日本という国は、食べ物、着るもの、住むところが簡単に手に入ります。水も豊富にあります。電気が当たり前のように使えます。教育も受けられます。爆撃や銃撃戦が繰り広げられることもありません。
少しお金が欲しいと思ったら、コンビニなどでアルバイトすれば1時間で800円ほどもらえます。8時間働けば6400円です。
土日休んだとしても月に20日アルバイトすれば12万円以上稼げます。もっと稼ぎたいと思えば、アルバイトで月に30万円稼ぐことも可能です。
そんな社会は当たり前ではありません。仕事が欲しくても、その国に仕事がない人たち、1日フルに働いても500円しかもらえない人たちがたくさんいます。
その日の食べ物に苦労したり、何を食べるかを選べない人たち、衣類が手に入らない人たち、水を手に入れるのが難しい人たち、電気も水道もないところで暮らす人たちがいます。
毎日爆撃や銃撃におびえながら暮らす人もいます。家族が亡くなったり、自身も怪我を負ってしまった人もいます。
日本自体もずっと豊かだったわけではありません。昔は武士が好き放題士、切り捨てごめんで、農夫などを簡単に切り捨てていた時代がありました。
戦争のときは、軍部に逆らえばボコボコにされ殺されてしまいました。従ったとしても戦争に行って戦死する人生でした。
そんな中、今の日本に生まれた時点で私たちは相当に恵まれています。この状態で「足りない」と嘆いていたらバチが当たります。
「足りない」と嘆くバチとは何か?
「バチ」という言葉は、本当は存在しない神様が与えるというスピリチュアルな印象が強いです。ですが、ここでの「バチ」はスピリチュアルなものではありません。
「足りない」と嘆くことのバチとは、決して幸せになることができないということです。
そもそも、幸せとは心が満ち足りている状態です。「足りない」とは真逆のところにあります。
「足りない」と嘆く人はより多くを求めようとします。お金、権威、社会的地位、モノ、異性などです。
ですが、最近の心理学の研究の結果、外から与えられるときに得られる喜びは平均3か月しか持続しないことがわかっています。
つまり「足りない」と言って、次から次にモノを得る人生を送っている限り、永遠に足りないのです。それがバチです。
なぜ、少し損をして生きるべきなのか?
多くの人がより多くの利益を追求する中で、なぜ敢えて「少し損をして生きるべきか」というと、それが、「自分が恵まれていることを理解した行動」だからです。
「少し損をして生きる」といっても納得せず、「なんでこんなことしなきゃいけないんだ」と不平不満を感じながらやっていては意味がありません。欲が増大し不幸になるだけです。
そうではなく、自ら納得して「少し損をして生きる」のです。
そのためには「私はこんなにも恵まれている。だったら少しぐらい損を引き受けないとバチが当たる」と感じる必要があります。
少し損をして生きるとは?
「少し損をして生きる」は何も大きなことや突飛なことをしなければいけないわけではありあせん。社会のルールを守ったり、お年寄りや子供、弱者を優先することです。
信号を無視しない
歩いて目的地に向かっている時に、明らかに車が来ない交差点があったとします。そこで、信号が赤に変わったとき、あなたならどうするでしょうか?
明らかに車は来ない、だったら渡ろうと考えるのではないでしょうか。
その時に「自分はもう十分恵まれているのだから、信号ぐらい待とう」と言って、信号が青になるまで待つこと、それが少し損をして生きるということです。
スーパーの駐車場で遠くに停める
スーパーやショッピングモールに行ったときに、あなたはどこに停めたいと思うでしょうか?できる限り入り口に近いところに停めたいはずです。
お店の入り口付近で出る車がないか、空いているスペースはないかを見逃すまいと目を凝らします。
そうではなく、遠くの明らかに空いているところに停めるようにするのです。
お店に近いスペースはお年寄りや、子連れの人のために空けておくのです。
「自分は十分恵まれている。それに、健康でちゃんと歩ける足を持っている」と言って、遠くに停めます。それが、少し損をして生きるということです。
賞味期限の近い商品を買う
あなたがスーパーに行って、例えば牛乳や納豆を買う時、賞味期限は長いものを買うでしょうか?短いものを買うでしょうか?
当然、長いものを買うと思います。その方が長持ちするからです。
ですが、そうではなく「自分は十分恵まれているんだから、少しぐらい損を引き受けないとバチが当たる」といって、賞味期限の短いものを手に取るようにします。
賞味期限の長いものは、本当にすぐに食べる人や、明日スーパーに来る人に譲ってあげるのです。同時に、その食品を作ってくれた人たちに感謝し、せっかく作ってもらったモノを無駄にしないようにします。
レジで並んでいる列の後ろに並ぶ
レジに並ぶ時は、空いているところを血眼で探して他の人に奪われてたまるかと、割り込むように入る人がいます。
そうではなく、ここでも少しの損を引き受けます。
「自分は十分恵まれているのだから、少しぐらい並んで時間がかかる場所を選ばなければバチがあたる」と言って、既に並んでいる人の後ろに並びます。
他のレジはもっと急いでいる人たちのために譲ってあげるようにします。
お年寄りはいずれ自分も通る道
駐車場に行くと、お年寄りが何度も切り返しながらゆっくり駐車している場合があります。レジに並んでいると、お年寄りがお財布からお金を出すのにまごついていることがあります。
そんなときどう思うでしょうか?
「とろくさいな。早くしろよ」そんなふうに思ってしまうのが普通です。
ですが、お年寄りとはいずれ私たちも通る道です。私たちの未来の姿です。いつの日か私たちも動作がゆっくりになり、細かいものを掴みにくい日がくるのです。
たまたま自分たちがその順番になっていないだけです。
だからこそ「自分は十分に恵まれているのだから」と言って、お年寄りのために駐車スペースを譲る。レジを譲る。できることはそれだけではありません。
お年寄りが駐車しようとしていたり、レジに並んでいたら、敢えてその後ろに並びます。そして、お年寄りが安心して自分のペースでできるように守ってあげるべきです。
心無い人が「とろくさいな。早くしろよ」と言って責め立てることから守ってあげるのです。
「少し損をして生きる」の習慣化
目指すべきところは「少し損をして生きる」を無意識にできるように習慣化することです。
無意識にできるようになったということは「自分はもう十分に恵まれている」という認識が当たり前になったということです。
「自分はもう十分に恵まれている」と心から思える人は幸せです。
損を引き受けられる人のところには、同じく損を引き受けられる人が集まってきます。
衣食住があって生活することができる。楽しいこともたくさんある。たくさんの人たちとの出会いがある。自分はこんなにも恵まれているんだから、少しぐらい損を引き受けようが当たり前になれば、間違いなく素敵な人生になります。
損を自ら引き受けて、「全然いいよ。だって私は十分に恵まれているから」と自信を持って言いきれる人は最強です。損を引き受けて生きるとは素晴らしい生き方です。
今の自分が十分に恵まれていることを知り、少し損をして生きましょう。
あなたとあなたの周りにいる人たちの人生が素晴らしいものになることを心より願っています。
参考
この記事の内容は複数の企業を経営する中村信二さんの「営業の魔法」の一部要約および、自分なりの解釈を加えたものです。
営業の魔法は音声版で楽しく学ぶことができるものです。美しい心理描写のストーリー仕立てで、主人公が学びながら成長していく姿がありありと目に浮かびます。
最初から最後まで心からうならされる学びで満ちています。感動にも満ち溢れ、心が熱くなること間違いありません。
仕事や生き方で迷っている人はぜひ聞いてみることをお勧めします。心に希望の光を与えてくれる、何度も何度も聞き返す価値のある素晴らしい一冊です。