古代中国で論語で有名な孔子と並んで有名な人物に老子がいます。
老子の言葉に次のような言葉があります。
学を為せば日に益し、 道を為せば日に損す。
この言葉、「学を為せば日に益(ま)し」は「学べば日に日に増えていく」という意味であるのはわかりますぅが、「道を為せば日に損す」は「道とは何か?」「損をするのにいいのか?」といった疑問が湧く言葉です。
ですが、「道を為せば日に損す」こそ、物事の本質を突く重要な教えです。
ここではその意味について解説しています。
「道」とは私たちの想像する道路などの「みち」ではありません。
宇宙自然の普遍的法則や道徳的な規範、美や真実の根元などを意味する言葉です。
わかりやすく言うと「物事の本質」のことです。「タオ」「どう」「みち」など読み方は様々です。
老子が確立した哲学を「道教」と言います。物事の本質を教える哲学です。
孔子は「理想の人とは『礼』と『義』を重んじる人だ」と説いていますが、老子は「『道』は礼と義を超越した真理だ」と説いています。
「道を為せば日に損す」とは、「本質を理解すれば、日に日に必要な物事は減っていく」という意味です。
「損」は「減る」という意味です。
日々増えていく知識(学を為せば日に益し)と対象的に「余計な物事が削り取られてシンプルになっていく」ということです。
本質を見つめている人は余計な知識をつけたり、余計な行動をしたり、余計なモノを持っていないということです。
多くの人があれもこれもなきゃ生きていけないと言うのに対し、僧侶が洋服1枚はおって山にこもったり、旅を続ける状態に近いです。
どちらの状態も生きています。違うのは考え方と目指しているところです。
「学を為せば日に益し、 道を為せば日に損す」の全文は次のようになっています。
学を為(な)せば日に益まし、道を為せば日に損す。
これを損して又(ま)た損し、以(も)って無為(むい)に至る。
無為にして為さざるは無し。天下を取るは、常に無事(むじ)を以ってす。
その事有るに及びては、以って天下を取るに足らず。
無為(むい)とは老子の求めた究極の形です。
「為」とは「意識して行うこと」です。つまり、「無為」とは「意識的でない」という意味です。
老子のいう「無為」な状態とは、「意識していることは何もないが、全てをわかっている状態」です。まさに悟りを開いた状態です。
意識せず自然の法則に沿って生きている状態でもあるので「無為自然」とも言います。
「学を為せば日に益し、 道を為せば日に損す」は裏を返せば、
欲張れば欲張るほど、動きは鈍くなる。
と言っているのと同じです。
私たちの暮らしにはモノや情報が溢れかえっていますが、そういったものをどん欲に手に入れて、「もっと欲しい」「全部やりたい」と願えば願うほど、自分にとって本当に大切なものは薄れていき、「こんなに努力してるのに、一向に幸せにならない」と叫ぶ人生が待っています。
元々、高級官僚だった老子にとって、彼の生きていた2700年前も似たような状況だったのでしょう。
いつの時代も本質は同じです。