少子化や高齢化により人口減少している日本は消費者の数が減り事業の存続が厳しくなっている企業や地方自治体が少なくありません。
毎年積み重なる赤字にあえいでいる人や組織も少なくない状況です。
このような時に参考になるのが歴史です。過去の日本には今よりももっと酷い災害が続き餓死者が何十万人にのぼるような時代がありました。
その時代に地方の経済を立て直し再生させた地方活性化のプロがいます。それが二宮金次郎です。
二宮金次郎というと校庭に石造があり、小さな子供が薪を背負いながら本を読みかわいらしく勤勉努力な証として認識している人も少なくありません。
ですが、本当に活躍したのは大きくなってからです。体形は身長182cmの筋骨隆々としたいかつい大男です。
当時、二宮金次郎がとった施策は現代でも十分に通用するものがたくさんあります。
ここでは、二宮金次郎の生い立ちからその施策の内容を解説しています。
現代の日本は人口減少に加え、原発事故、土砂崩れ、竜巻、コロナなど様々な災害に見舞われています。
二宮金次郎が生まれた時代も人口減少と様々な災害に見舞われていました。
二宮金次郎は今から約250年ほど前の1787~1865年の日本に生まれました。その頃日本は長野県と群馬県にある浅間山が大噴火を起こし、火山灰が太陽の光を遮り冷害によって食料が取れない状況が続いていました。
これにより、群馬県の村が消滅するなど大きな被害をもたらしました。
凶作は全国に広がり飢え死にする人が何十万人も出るという事態に至っています。そのような重大な経済・食料危機の時代です。
金次郎は神奈川県の農村で生まれた農民でした。家は田畑をもちそれなりに裕福でした。
ですが金次郎が4歳のとき川の堤防が決壊して田畑が全滅し、二宮一家は貧乏のどん底に落ちました。
二宮一家は数年間をかけて荒れた田畑を懸命に耕し、なんとか農作物がとれるところまでもっていきました。
開墾の無理がたたり金次郎が13歳のとき父が病死します。その後を追うように2年後、金次郎が14歳のとき母も病死しました。
3人兄弟でしたが6歳だった弟も死んでしまうという、現代では考えられないような不幸に見舞われています。
まだ子供で体が小さかった金次郎は力仕事を十分にこなすことができませんでした。そこで目を付けたのが、みんなが履いているわらじ作りでした。
当時はわらを編んだわらじを履きものとしていました。現代の靴よりも耐久性がなく、重労働をすればすぐにボロボロになってしまうものです。
そのような周りの人の事情と、非力な子供でもできる点に着目したビジネスです。
金次郎の父は学問好きで家には本がたくさんあったため、わらじを作る作業中も本を読みながら作業をしていました。
そうした幼い頃からの積み重ねが薪を背負いながらも本を読める能力自然と身に付けられたことにつながっています。
ある日金次郎は、わらじを売って稼いだお金で松を買いました。そしてその松を川の土手に植えました。
これは幼い頃に堤防が決壊して家の田畑が全滅したことへの反省と対策でした。
松が大きくなり根を張れば土手がしっかりして堤防の決壊を防ぐことにつながることを見越した未来への投資です。
母が死んだあと金次郎は父の兄の家に引き取られました。そこでは労働力として朝から晩まで外で肉体労働をし続ける日々でした。
そんな中、「この暮らしから抜けるには今のままの生活を続けていては何も変わらない」「学問こそが未来を変える」と考えていた金次郎は、仕事中や夜も本を読むようにしていました。
夜は菜種油に火をつけてその明かりで本を読んでいました。
しかし、父の兄は金次郎が本を読むことを余計なことだと考えており、「夜に菜種油を使うな!」と𠮟りつけました。
金次郎は菜種油をつかったことを謝罪し、次の日ある農家から一握りの菜種のタネを貰いにいきました。それを近くの荒れ地にまきました。
翌年、菜種が花を咲かせました。その種の一部を農家にお返しし、残りを油屋に持って行って菜種油に変えてもらい、その菜種油で明かりを灯し、また本を読むようにしました。
本を読む中で金次郎が最も感銘を受けたのは「積小為大」(せきしょういだい)という言葉です。
小さなものを積み重ねていけば、やがて大きくなるという意味です。
それは、わらじを作って売ったり、そのお金で松を買って未来の堤防決壊に備えたり、菜種を植えて菜種油を得るなど、数年単位やってきたこれまでの行動を裏付ける言葉でもありました。
厳しい年貢から逃れる方法として金次郎が目をつけたのは、当時の「荒れ地を開墾してとれた作物は7年間年貢を納めなくていい」という規則でした。
このため、仕事の合間を見ては荒れ地を耕し稲を植えていきました。それは翌年みごとな稲になりました。
この開墾を繰り返し続けていけば資産が溜まっていくという戦略です。
しかし父の兄は金次郎をこき使って、開墾する時間をほとんど与えませんでした。
そこで金次郎は家を出ることを決意します。その際「勝手にすればいい。失敗してももう二度と面倒を見ない」とまで言われています。
怒りをぶつけられ不安を煽るような言葉を言われても、家を出たことが金次郎の成功につながっています。
17歳で家を出て、その後働き続けた金次郎は翌年の18歳のときには十分な米を収穫することが可能になっていました。
19歳になった金次郎は生まれた家に戻り、これまでに稼いだお金で元々持っていた土地を買い戻しました。
そして、これまでと同じように荒れた田畑の開墾を数年単位でコツコツとしていきました。
その地道な努力の積み重ねの結果、4年後には地元で有数の地主になりました。そして、地元に戻ってから約10年後の30歳のときには、その一帯で一番大きな大地主にまでなっていました。
金次郎の財政立て直しの力は噂になっていました。そのため、借金を重ね財政が悪化していた侍の服部家の屋敷の財政立て直しを依頼されました。
そこで二宮金次郎は一番最初に「期限を切り」、3つの約束を立てました。
侍屋敷は今でいう旅館事業のようなものです。そこでみんなに課したのが厳しい節約です。
徹底的に無駄を省きました。具体的には、次のようなことをやっています。
こうした地道な節約を積小為大の精神のもとに積み上げていきました。
金次郎のこの政策が何年間も続いたのは、そこに厳しさ以外に優しさと知恵があったからです。
人は節制を強いられれば嫌がったり、隠れてごまかしたりすることをわかっていました。
金次郎が人のモチベーションを上げるためにやったことは次のようなものです。
例えば、高いお皿を割ってしまったときでも、素直に謝ればそれを許します。
使用人の母が病気でどうしてもお金が足りない時など、その人が薪を使って米を炊く係であれば、薪を1本節約したら、浮いた分をそのまま使用人に渡す約束をする。
買い付け係が野菜を上手く値切って手に入れたら、浮いた分は使用人に渡すなどです。
働く人のモチベーションを上げる仕組みを整えて、節約に対する意識を上げていった結果、5年後にはすべての借金を返済し、さらに大きな利益を出しました。
得た利益はすべて雇い主に返すことを申しでましたが、それでも受け取って欲しいといわれ一部のお金を受け取りました。
その受け取ったお金は、使用人たちが協力してくれたおかげで達成できたと感謝の意を表明するために、使用人で分け合うように残していきました。
そして、自分は1銭も受け取らず自分の家へと帰っていきました。
金次郎の行動や知恵により財政を立て直したことは言うまでもありません。
ですがもう一人重要な立役者がいます。それはこの侍屋敷の主です。
当時、侍と農民の身分は完全に別れており「侍の方が優れている」「農民は劣っている」という考え方が当たり前でした。
「しょせん農民には無理」という意見が出る中で、農民である金次郎に全てを任し、5年間一切口出しをしないという約束を守り切ったことが、財政立て直しにつながりました。
家柄や身分などの差を無視して、実績のある優秀な人を登用し任せたことが成功につながっています。
金次郎の噂は広がり、その地方を治める藩主から桜町(栃木県二宮町)の立て直しを依頼されるまに至りました。
当時の人にとって藩主からの依頼は、県を上げて表彰されるようなものでとても名誉なことでした。ですが、桜町の財政の厳しさや立て直しの難しさを知っていた金次郎はその申し出を断りました。
しかしどうしても金次郎に依頼をしたい藩主は「実際に町を調べて、はっきりと無理だと思う理由を述べよ」と伝えました。
そこで、金次郎はその町に生きました。
町を調査するときに金次郎は役人の案内を断り自分の足で調査する方法を選びました。
農民の本当の暮らしをみるためには役人がいては本質が見えないと知っていたからです。
そして、村の一軒一軒を訪ねて回り、すべてのことを細かく調べ上げました。
その町には米俵4000俵という年貢が課されていました。ですが現実はどんなに頑張っても3000俵が限界な地域であったため、そこに住む人たちはどれだけ働いても楽にならないことを知っていました。
実際、前年に収められた年貢は800俵と課せられたものに全く見合わない状態でした。
このとき政府がとっていた政策は立て直しのために町民にお金や米を渡すというものでした。今でいう補助金です。
ですが金次郎はこの補助金がムダであることを知っており、「働く気力の無い者に、いくらお金を出しても無駄」だと進言しました。
対策として「働けば暮らしが楽になるという望みが必要」だと訴えました。
そのため、村が立ち直るまでの10年間は年貢を1000俵に下げることを申し出ました。
補助金政策の無駄を指摘し、人のモチベーションが上がる適切な制度設計をしたわけです。
金次郎の申し出は受け入れられ、町の立て直しを担当することになりました。
金次郎は立て直しに全力を注ぐためこれまでの人生で再建してきたい家と田畑をすべて売り払い、その町に引っ越しました。
人生を賭ける覚悟を決め行動に移したということです。
金次郎は村を立て直すために農民一軒一軒を周り節約するアドバイスを伝えました。
ごはんを炊くときに、麦と米の分量を調整したり、安全なトイレの作り方を指導し肥料に使うことを推奨するなど、夜遅くまで歩き回って指導し続けました。
農民のモチベーションを上げるため報奨制度の設定も行いました。
一番の収穫を上げた者にクワやカマを進呈するという内容です。これで農民たちの競争心を煽りました。
このように、金次郎は荒れ地の開墾から人がモチベーションを上げる施策の考案と実行まで、寝る間をおしんで作業を続けました。
しかし、そんな金次郎の活躍を良く思わない町人や役人が、悪評をばらまき金次郎の政策の邪魔をしたことで、計画は頓挫してしましした。
金次郎は失意の元、成田山で21日間の断食を行いました。
そのときに「助けてやる」と上から指導する目線に立っている自分に気付き、20歳の頃に大切にしていた「積小為大」に戻るべきだと気付きました。
そして、21日間の断食を終えてすぐに80㎞の道のりを歩いて町へと戻りました。
そして断食から2年後に町を見事に立て直すことに成功しました。
35歳で一大決心して家と田畑を売り払い、42歳で失意の元断食を行い、そして44歳で復興を成し遂げました。その間9年もの間、ひたすらに現実と向き合い小さい改善を積み重ね、ようやく成功に至っています。
金次郎の噂は全国にとどろき、みんなから尊敬されるよになり、その頃には二宮尊徳と呼ばれるようになっていました。
やがて、金次郎から教えを請いたいという人が全国から集まるようになります。
その時に金次郎は次のように伝えています。
かなりストイックですが、それこそが何度も何度も事業を成功させてきた人の方法です。
金次郎の教えは現代の事業にも十分に生かすことができます。金次郎に莫大な資産や政府など上の人からの支援があったわけではありません。
やったことは大きく次の5つだけです。
これは現代でもできることばかりです。
これとは逆の行動をとれば今も昔も事業は失敗します。
現在、国や地方自治体が展開している政策は、自分たちの身銭ではなく、補助金などの税金を使って、明確な責任の所在をはっきりさせず、使える補助金を全て使い、最初に決めた計画に沿って仕事を割り振り挑戦や失敗を愚かなものとみなすことです。
こんな事業は今も昔も成功するはずがありません。
二宮金次郎が成功法則を編み出してくれた以上、もう一度同じ検証をする必要はありません。既に成功するための条件はわかっているので、巨人の肩に乗り事業を推し進めていきましょう。
あなたの事業が軌道に乗り、あなたとその周りの人たちが幸せになることを心より願っています。
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