クールビズの浸透やシリコンバレーなどのIT企業の台頭で、ネクタイをつけなくてもいい企業や職場が増えてきました。
ネクタイの存在自体に疑問を持っている若い人も少なくありません。
余計な手間が1つ増えて、首が閉まり、作業もしにくい。実用性と言う面で考えるとネクタイは全く持って実用的ではありません。
ではそもそもネクタイはなぜ存在するのでしょうか?
ここでは、ネクタイは必要なのか?についてネクタイの歴史を追って解説しています。
ネクタイの原型ができたのは1600年代ごろと言われています。
クロアチアの兵士が首に巻いていた布がフランスで大流行したことが始まりです。
クロアチア兵士がこの布を首に巻いていたのは命令からではありません。戦地に赴く際に恋人や妻が無事に帰還することを願って巻いたと言われています。
つまり、ネクタイは「愛の証」でした。
それが「カッコいい」「オシャレ」となってフランスで大流行したわけです。
結び目ができたのは1800年代後半のイギリスでした。
競馬場に集まる時に着る正装や、社交界の伊達男(先進的でオシャレな人)たちが付けたのが発端でした。
ネクタイは誰もが身に付けられるものではなく「高級でオシャレのステータス」でした。
貴族など時間やお金に余裕のある人たちが楽しむファッションでした。
「愛の証」→「オシャレ・かっこいい」→「高級でオシャレのステータス」と変遷してきたネクタイは、ビジネス界で活用されるようになりました。
最初はトップや上流階級の人だけがステータスシンボルとしてネクタイ=オシャレ・上品としてつけていたものが、社員全員につけさせれば、会社の品位が高く見られるとなっていきました。
これまで「ネクタイを着けたい」「カッコよく見られたい」だったのが「ネクタイはつけなければいけない」という強制に変わったわけです。
イギリスでは上司が部下にネクタイをプレゼントすることがあります。
その裏には「お前は私に忠誠を使え」という意味が込められているとも言われています。
実際、現在ネクタイを締めている人は「自分が楽しむ」ではなく、「つけなければいけない」と思い込んで着用している人がほとんどです。
その結果、ネクタイを着用していない人を見るとイラっとしたり「俺はつけてるんだから、お前もつけろよ」と強要したりします。
人によってはネクタイを着けている自分はちゃんとしていて品位があると考えているので、着けていない人を見下す差別をする人もいます。
そのような背景の中でネクタイを強制されることに反感を持つ人が増え、ネクタイをしない人が増えています。
2019年に小泉首相が「ネクタイしなくても結構だ。自分で着たい服を決めて、多様な働きやすい職場を作っていく」という発言をして、多くの支持を集めています。
アメリカや日本のベンチャーもネクタイは邪魔、ノーネクタイがかっこいいという風潮が出ています。
もともと「ネクタイを着けることがかっこいい」だったのが、400年の時を経て「ネクタイを着けないことがカッコいい」に変わってきています。
ウルグアイの第40代大統領 ホセ・ムヒカは1度もネクタイをつけなかったことで有名です。
ホセ・ムヒカはネクタイについて次のように語っています。
人生を複雑にするだけで、何の役にも立たないただの布
最後にネクタイは必要かについてですが、ネクタイが当初大流行したことでみんなが付けるようになったように、本人が着けたければ着ければいいし、着けたくなければ着けなければいいが正解だと思います。
もちろん「ネクタイは絶対に必要だ!」と思っている人のところに、ノーネクタイでいけば怒られます。
「ネクタイはつけなくていい!」と思っている人のところに、ネクタイをつけていけば「余計なモノを着けている」と思われます。
冠婚葬祭にノーネクタイでいけば浮きます。白い目で見られることもあるでしょう。
でも、相手を心から祝っているか、死を心から悲しんでいるかはネクタイで決まるものではありません。
大切なのはあなの意志です。
誰に何を言われようが、あなた自身が考えどう行動するかです。
ネクタイ不要論が唱えられている今でもネクタイの効果は目に見えてあります。
ネクタイをしてない人と、ネクタイをしている人がいれば、ネクタイをしている人の方がしっかりとした印象に映るのは人の心理です。
短パン半ズボンの人とスーツを着ている人を比べたら、スーツを着ている人の方が信頼感があるというのと同じです。
特に多くの人が「めんどう」だと嫌がることだからこそ、そのひと手間を惜しまない人はしっかりしている人に写るものです。
「ノーネクタイでもいい」と言っている小泉さんのネクタイ姿はとてもカッコいいのが現実です。
ネクタイを着けるか着けないかはあなた次第。
事実は、「ネクタイを着ければ時間をとられ動きが制限される。しかし、ネクタイを上手く使いこなせば、相手にいい印象を与えられる」です。